洗濯機を机にベランダから

机じゃなくてベランダの洗濯機にパソコンを置いて書いてます。どいせ洗濯機の上で作られた記事だって、さらっと読んでもらえると◎

コミュ障のこころみ

 

入った先は

期待を込めた顔で、おじさん達が怪しく光る店の中に消えていく。

入った先はキャバクラ。お酒と女の子との会話を楽しむ場だ。指名の子会いたさに、とか、まだ飲み足りなくて、とか、接待だけど女の子もいるカジュアルな場にしたくて、とか、色々な目的が、今日もおじさん達を店に連れてくる。勝手な理由でやってきて、好きなことを言い、好きなときに帰っていく。そんなお客さんの「気まぐれ」がここには混在しているようだ。 

 

 

キャバ嬢の過酷さ

そんなおじさん達の「気まぐれ」に対応するのがキャバ嬢だ。
キャバ嬢と聞くと、「金髪顔面整形で、爪が凶器の尻軽ギャルが、お気楽に大金を稼いでる」とイメージして、軽蔑するかもしれない。 


だれど、実際のキャバ嬢という仕事は、そんなに優しくない、というか過酷だ。
いろんなタイプのお客さんに対応するたびにキャラ迷走する子も、指名を勝ち取るためにプライベートを切り売りする子もいる。


綺麗なドレスを着て笑顔で振舞っているが、頭の中は、
「このお客さん、あとどのくらい財布に余裕あるんだろう」
「今話してる話題で、私も面白いエピソードあたっけ」
「このお客さんには、どういう対応すれば喜ぶんだろう」
と、めまぐるしい。


売り上げのために、浴びるようにお酒を飲んで吐いて、朝目覚めると、まだ店の中だった、なんてこともある。
キャバクラは、売り上げ次第で、給料も待遇も変わる超実力社会で、卓上は戦場だ。
キャバ嬢は、女とコミュニケーションを武器に、お客さんを楽しませるエンターテイナーだと思う。

 
 

  一方私は

一方私は、もともと根暗で、コミュ障だ。
小さい頃から、人目に触れるのが嫌いで、あまり外では遊ばず、家でピアノを弾きまくっていた。
息をするように人と仲良くなれちゃうキャバ嬢とは、住んでいる星が違う。
地球人は地球に、火星人は火星にそれぞれ住んでいるように、違う星の者どおし、住み分けるのが平和の鉄則だ。
そう思って、自分の星にマーキングしまくり、安住していた。

 

小5から、「ゆかちゃんちょっと変」「天然」「変人」と言われるようになり、高1から、それに「変態」が加わった。
よく分からないけど、私はちょっとだけ変わっていて、みんなからちょっと浮いているようだ。
高校生の頃、いつも考えていたことは「普通ってなに?誰か、普通と呼ばれる類の言動を教えてくれ!」だった。
だから、家でテレビをつければ、「普通に」振る舞うための講座だと思って、真剣に観る。
「普通」に馴染むために、地球という星の、人間という生命体の振る舞い方を習得する必要があったのだ。

 

就職活動を経て内定をもらったときなんかも、「君は人間社会で生きていても害のない人材です」「welcom to 社会の歯車」と、やっと人間として合格の印鑑を押されたみたいで嬉しかった。

 

だけど、未だに、私は23歳人間メスの皮を被った、人間とは違う別の生命体なんじゃないかと思って、疎外感を感じるときもたま〜にある。

 

あまり言うと、ひかれるで、このぐらいにしておいて。

 

それぐらいに私はコミュ障だから、「TPOに合わせて、一般的な対応をとる」ことにものすごく苦手意識がある。

だから、自然にコミュニケーションが取れない分、人と対峙するときには
「この人は、どんなキャラクターで、今は何をしてほしいんだろう」
「この場ではどのように振る舞うのが正解なんだろう」
と常に集中して考えていないと、見当違いなことを言ってないか、仲間はずれにされてしまわないか、いつも不安になるのだ。  

 

 

そんな私がキャバ嬢デビュー(笑)

キャバクラでのバイトは、生活費のためもある。
でも、とにかく対人関係に自信がないから、どうにかしたくて、思い切ってやってみることにした。
おそらく、数時間で、こんなにも年齢も業種も価値観もバラバラな人に会って話さないといけないバイトはないだろう。
私のツラ構え、中の上ぐらい。
体重52㎏、身長162㎝。
ルックスは、まぁ、特に問題はないだろ。

 

 六本木や銀座、歌舞伎町といったゴリゴリでギラギラのエリアは怖すぎるので避けて、おじさん達がちょっとした気分転換で羽休めにやってくる、上野というエリアで働くことにした。 朝7時。今日も口がお酒臭い。スーツを着たサラリーマン達が、早足で駅に向かうのを横目に、私はやっと帰宅する。

 
 

記録を書き留めよう 

コミュニケーションについて、キャバクラで学んだことを忘れないために、血と肉にするために、キャバクラでのアレコレを、これから書き留めていくつもりなので、暇があれば斜め読みしてください。

 

レッツ、脱コミュ障。

 
 
 

ふいに、ふと、みかん

 

小さい頃の記憶なんて、地元を出て生活し始めたぐらいから、拍車をかけて忘れてしまった。

初めて自転車に乗れた喜び、お母さんのおにぎりの塩加減、実家のピアノの鍵盤の硬さ。

きっともう一度体験すれば、「あぁ、これだこれ」と感覚が蘇るけど、今の日常に、その感覚を思い出す余白はない。

 

友人に、写真好きな人がいる。

最近フィルムカメラを始めたらしい。

その友人に、フィルムカメラマンで有名な奥山由之さんの『As the Call, So the Echo』という写真展があるから一緒に行かないかと誘われた。

港区の海岸1丁目でその写真展はあるらしく「奥山さんは26歳で若いのに、めっちゃ綺麗な写真を撮るんだよ!」と道すがら説明を受け、すっかり興味を持った私は、わくわくしながら写真展に向かった。

 

無骨な音の鳴る、淡いブルーのエレベーターに乗って5階に上がると、無機質なコンクリートの床と白い壁の広い空間があった。

白い壁には、バランスよく写真が展示されている。写真と、白い壁のバランスが贅沢だ。

 

2年にわたり、とある長野の村で暮らす家族と、その周りの人々の日々の情景を切り取ったものが展示されていた。

 

父が子を抱きしめている写真

これは家の前かな?

 

抽象的な色だけが映された写真

素材はアクリルでツルツルしている

 

赤ちゃんが一人お風呂に浮かんでる写真

誰も支えてあげてないけど、沈まないかな

 

なにげない日常の一コマであるはずなのに、私の中に流れる何かに、奥山さんのレンズを通したその一コマがトリガーとなって、何かを彷彿させようとした。

たぶん、ここの村の家族の光景が、昔の私の家族の光景と少しリンクしたんだと思う。

 

父親に守られるようにして抱かれている子供。

もう降ろしてほしそうな、でも父親に抱っこされて嬉しそうな、不安定な表情を浮かべていた。

子供は、まだ知りもしないが、そこには愛情がはっきりと写り込んでいた。

 

思い出すことすら忘れていた思い出。

思い出す余白なんてなかったはずが、私の脳にはきちんと刻まれていたらしい。

 

過去、リアルに体験したはずなのに、もう具体的なエピソードは抜け落ちて、感覚や感情だけが残っている。

 

小さい頃、家族から愛された感覚。

懐かしい。

夕と夜が混ざり合い、曖昧になる5時。

5時を合図に、ポーンと切ないチャイム音の夕焼け小焼けを聞いているような、名残惜しいけど、早くお家に帰りたくなるような、そんな気分だ。

 

そういえば、先日家族から鹿児島の名物、桜島子みかんがたくさん入った段ボールが送られてきた。

母から「頑張っているね。体に気をつけて!」のメッセージカードが、みかんの上にそっと置いてあった。

 

渋みも酸味もない、ただただ甘ったるい桜島子みかんの味は、鹿児島での冬を思い出す。

 

よし、そろそろ、実家に帰ろう。

 

孤独について考えていた22歳の5月11日の日記が出てきた

 

孤独について考えていた22歳の5月11日の日記が出てきた。
 
2016-05-11
 
 
育ってきた環境、性質、身体つき、性別、今身を置いている環境、ひとまとめに呼んで、その人の個性。
一個ずつ、それぞれの選択肢を、意識的に無意識的に取って、個性が出来上がっていく。
そしてその個性を持って、みんながみんな、それぞれの方向を向いて歩いている。
例えば私が、美醜センスもなくて、友達もいない、何の世界も知らなかったとしたら、たくさんの選択肢が転がっているんだろう。
たった一個の選択肢で、如何様にでも染まれるんだろう。
自分の属性はなく、世界は無限に広がっている。

だけど、私はもうたくさんの選択肢を取ってきた22歳なのであって、何色かは分からないけど、染まっている。
全く違う場所から選択肢を取ってきても、きっと既に染まっている色をガラッと塗り替えることはできないだろう。

そうやって、自分のカラーができて、個が強くなっているようにも見えるけど、何かを断て去っているようにも見える。
何かを選び取るということは、同時に何かを捨てるということ。
断捨離の末に、狭い人間になっていくようで、安心できない。
他人の痛みとか、もがきとか、喜び、葛藤、悲しみ、幸せに、共感できなくなってしまうんではないかと怖いのだ。

でも、何にも染まらなければ、何者にもなれず一人なわけで、孤独なわけで。
でも、染まりきったらその色は誰とも違う私だけの色で、一人なわけで、孤独なわけで。
 
だから、人間はどうあがいても、自分の理解者は、たった自分だけだ。
人は孤独だ。
だからなんだか最近は悲しい。
 
 
誰かが、「孤独は友達」と言っていた。
孤独は怖い。
誰からも好かれる人気者でいたい。
人を理解したい、されたい。
みんなの理解者になることや、みんなから好かれることなんか、無理だと分かっているけど、無理だと分かりたくなくて、孤独から逃れるためのコミュニケーションを重ねる。
なんて虚しい。
早く孤独を飼いならしたい。
 
 
 
 
 
 

フリーターの本業

  

「俺、フリーターなんだ。しかも26歳。やばいだろ?」
手元を見つめながら、自傷気味に笑っている。
「何でだと思う?」
自己紹介の代わりに、ちょっとしたクイズを投げつけられた。
目元ギリギリの前髪から、一重の愛想のない目が、挑発的にこちらを見ている。
まんまと好奇心を掻き立てられて、そうであってほしいという願いと、そうであってほしくないという願いを半分ずつ込めて、
「もしかして、夢追い人なの?」
と答えた。
どうやら、答えは当たったみたいだし、彼もその答えを気に入ったみたいだ。

 

彼は、上野に住んでいた。
レトロな風貌のマンションの2階に上がってすぐのところに、彼の部屋がある。
「まぁ、汚いけど、どうぞ。」
初めて上がる部屋に警戒心と好奇心が混ざって、ついつい抜き足差し足になる。
案内されるがまま玄関に上がっていくと、背後でゴンッと何か落ちた音がした。
びっくりして振り向くと、足元にドアノブが転がっている。
一瞬状況が飲み込めない。
「ごめん!ドアノブ取れちゃって!ていうかドアノブって取れるの!?」
「ああ、いつものことだから。閉めた勢いで取れるんだよ。だからゆっくり閉めてね。」
いや、ゆっくり閉めればいいという問題ではなくて、ドアノブが取れるという状況がやばい。
焦っている私とは裏腹に、手慣れた様子でドアノブをドアに付けている。
彼は、なんてことないさ、とヘラヘラ笑っているが、もうドン引きだ。
ドアノブの取れる家に招待されることなんて、後にも先にもないだろう。

 

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彼の部屋に一歩入ると、部屋は散らかり放題で、積み上げられたダンボール、大量のたばこの吸い殻、黄色いシミのこびりついた便器、ワイヤーの飛び出たベッド、枯れた花束、次から次へと彼の生活の様子が見えてきた
「よくこんな汚くできたね。」
私が2回目のドン引きをしていることはお構いなしのようで、足の踏み場なんてないくせに、適当に座ってと促された。
座るところを探していると、別に仕切りがあるわけでもないが、一箇所だけ一定のスペースが保たれているところを発見した。
こんなに汚い部屋でも、そこだけちゃんと、聖域だった。
生活の場に共存するこの空間が、彼の小さなアトリエだ。


アトリエには、絵の具チューブが散在していて、キャンバスがちょこんと立っていた。
足元のパレットには、何色とも言い難い色が所狭しと並んでいて、このパレットも一つの作品のようで面白い。
どうやら彼は、明るい色よりも深くて暗い色が好みらしく、気を緩めたら、そのダークな色に飲み込まれそうな気がした。
壁いっぱいにずらっと過去の作品が立て掛けられていて、その量にゾッとする。
一体どのぐらいの時間とエネルギーを、この絵達に費やしたんだろう、どんな気持ちでキャンバスとにらめっこしたんだろう。
しかも、たった一人で。

 

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「こんなにたくさん描いてるんだね。」
「まぁ、画家だからな。」
「一人で描いてて、さみしくない?」
「まぁ、俺は画家だからな。」
と、また自嘲していて、どうやら「画家だから」が口癖みたいだ。

 

素人ながらにも、どの絵にも彼自身が宿っている気がする。
芸術家としての社会での生きづらさ、何かを貫くことで生まれる苦しみと挑発、孤独、もがき、ジレンマ、キャンバスに塗っては重ね、重ねては塗っている。
だから、彼の絵は、全体的に孤独な感じがする。
光やエネルギーを放出するというよりは、彼のさみしさが、見る者の心を飲み込む。
さみしいけれども、引き込む力がすごく強いから、弱々しい印象ではなく、むしろ強気、強引な印象だ。
「なんでフリーターなんかしてる思う?」と最初に質問してきたときと同じように、彼の絵も、強引に惹きつけ、そして喉元ギリギリに問いを突きつけてくる。

私達は、せわしなく過ぎる日常の中、どれだけ自分自身と、そして人生と向き合えているだろうか。ふと、その世界を徘徊してみたくなる。そして、自分の世界と、現実とのバランスを取っていくことは、想像以上に忍耐力がいるんだ。
 

商業用の消費されるデザインではないから、大衆に愛されるわけでも、お金になるわけでもない。
同じように油絵を描く画家同士でも、絵のスタイルに強いこだわりがあるゆえに、友達になれることはめったにない。
歴代の彼女達は、経済的な理由で両親に反対されたからと、決まって同じような理由で別れを告げられる。
芸術家って大変なんだ。
生活水準とか、社会的地位とか、人からの理解とか、金をかなぐり捨ててまで絵に向かう人生は、リスクだらけでアホに映るかもしれない。
だけど、彼はいつも真剣で、いかにいい絵を描くかが、心底大事なんだ。
「画家」この一言で、すべてに無頓着になれるほど、すべてを捨ててもいいと感じれるほど、彼にとっては偉大な作業なんだ。自分の人生に真摯に向き合った結果が「画家」で、それが彼の人生の形のようだった。

 

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今は、銀座の公募展のために、絵をせっせと描いている。

 

「次は深海をテーマに絵を描くよ。
深海ってさ、水と水が重なり合って水圧が生まれるじゃん。
光も届かない、酸素もない、水の重みで人もたどり着けない。
まるで人の心みたいじゃね?」

 

ドアノブの取れる小さなアトリエで、また新しい絵が生まれようとしている。

 

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葬いの顔面パックが、スタートダッシュのきりどき

夜、眠れないときがたまにやってくる。
昼寝しすぎたからとか、明日楽しみにしてる予定があってアドレナリンばんばんだからとかじゃなくて、目をつぶっていても頭だけが働いて、あれこれ考え事をしてしまう日。
やけに天井が高く感じて、暗闇と体が一体化して、もう脳みそまで暗闇に浸ってしまうんじゃないかって一瞬でも思う日。
毎日が始まって、終わって、その淡々と過ぎていく日常の合間に、こういう日がときたま訪れるのだ。

寝れないもんだから、私はしょうがなく起き上がって、小さめのライトをつける。
そして、夜な夜なスキンケアを始めたり、ヒップラインに効果的な筋トレをしたり、ラインがきてないか5分おきにチェックしだしたりする。
それが一通り終わると、やっと眠気がやってきて、気がついたら携帯を握りしめて寝落ち。
そして起きたとき、携帯を握ったまま寝ていたことと、さらに、携帯を意外と強く握りしめていたことに2度びっくりする。
こういう日。

本当は体も脳も疲れてるはずで、明日の朝「あのときの20分を、朝の二度寝用に繰り越したい」と思うことは分かりきっているはずなのに、眠気はいつもと同じリズムでやってこない。
薄暗い部屋で顔面パックして、5分おきにラインチェックとか、もうホラーだ。

眠りたいのに眠れない日。
でも本当の本当は、眠れないのではなく、眠りたくない日。
本当の本当は、しょうがなくスキンケアに勤しんでいるわけではなく、あえて勤しんでいる日。
眠気がくるまでの暇潰しでしているのではなくて、このまま今日が終わるのを勿体無く感じていて、その虚しさの埋め合わせするためにしていたのだ。
このまま目を閉じて、次開けたときに、愛すべき今日があっけなく去っていることを想像すると「惜しい」のだ。
もし、今日を完全燃焼できていたなら「惜しい」とは感じないはずだ。
二度とやってこない今日を、存分に愛した満足感と感謝で眠りにつけるんだと思う。
でも、私は今日が終わる間際になって、意味もなくスキンケアを始めたり、筋トレをしたり、SNSを徘徊したりして、完全燃焼できなかった今日を手頃なもので埋め合わせをする。
 「惜しい」と感じている自分の気持ちを、自覚させずに誤魔化すことができたら安心なのだ。
あぁ往生際が悪くて、ダサい。

完全消化できなかった虚しさとか、あっけなく終わってしまう寂しさって、本当に悲しい。
小学生の頃、夏休みのラジオ体操にちょっとだけ寝坊して行けなかったときの、午前中の手持ち無沙汰な感じと少し似ている。

パックは、私にとって、消化してあげれなかった今日への葬いの儀式。
そして、今日の終わりにパックをしたからといって、不完全燃焼な1日の清算はできない。

なぜ、「寂しい」と思っている自分に気づかなかったんだろう?

たぶん、虚しさとか寂しさとか、胸がぽっかり空くような感情は自分の中にも流れるんだと、認めたくないのだと思う。
強くあるために、そういうネガティヴな感情は邪魔なのだ。だから、そこへの感度は低い。
今日も笑顔でいるために、なるべく感じないように、邪険に扱う。

でも、醤油が料理の基本のさしすせそから外せないように、寂しさとか虚しさも感情の基本だ。

嫉妬、寂しさ、孤独、虚しさ、虚栄心
そういう重くて暗い感情は、全部現状に対する不満から来ているもので、「今に満足してないんだ」て気づかせてくれるものだ。
いつでも感情は素直で、本心に気づけよ、とサインを送り続けている。

目は背けずに、ネガティブな感情にあえてスポットを当ててみることで、満足していない強欲な自分を自覚できて、1歩、次の展開に進める。
スタートダッシュは、勢いのあるものばかりじゃない。
不満足の自覚を重ねて、じわじわ、じわじわスタートするものもある。
自分の感情の感度を低くしているからこそ、日頃のふとした行動の変化で、自分の本心を汲み取っていきたい。そうでもしないと、本心なんてすぐ逃げていく。

本心は簡単に感じれるものではない。体裁のいい、かっこいい自分を演出をるために、本心にすぐフタをしてしまいがちだから、丁寧に耳を傾けていないと、どの思いが本心か分からなくなる。

だから、眠れない夜がたまにやってきてパックをしだすようなら、「今日を愛してあげれなかった」ことの合図だと思うようにしている。

自分の本心を探れば、不満足に感じることは意外とあるもので、自分の変化のタイミングは日常に転がっている。
自覚は、変わることの合図だ。

atこれは洗濯機を机にして、ベランダで書いています。

近所のピアノは結局△

 

今豊島区に住んでて、自宅は駅から徒歩10分ほど。

 

休日に家でのんびりしていると、朝夜関係なくピアノの音がよく聞こえてくる。
それも、小学生が習いごととしていやいや弾いているような、生ぬるい演奏ではなくて、本格的なクラシックの演奏だ。
きっと楽譜は音符まみれで、指がもげてしまう程の難曲なんだと思う。

 
私も、高校まではコンクールで賞を取るくらいにはピアノに打ち込んでいたから、音を聞けば、どの程度のレベルかは分かる。 最近は、聞こえるたびに手を少し止めて聞いていて、ちょっとした日常の楽しみなのだ。
この艶っぽい音を出す人、ちょうどいい間で次の音を焦らす人は、一体どんな姿形で、何歳で、どんな家に住んでるんだろう?
いっそ女性じゃなくて男性だったら萌えるな〜。
平気で数時間ぶっ通しで弾き続けるから、どこの家から聞こえてくるのか気になってきて、いっそのこと探すことにした。
音を頼りにてくてく散歩に出かる。
ストーカー気質あるのかな、と行動に移した自分に引きながらも、気分は探偵だ。

 

音が近づいたり遠ざかったりしながら、なんとなくの場所を探っていく。
自宅からそう遠くはないが、家と家が密集していて意外と特定できない。
すぐそばから音は聞こえるはずなんだけど、豊島区は庶民の住宅街だから、ピアノが置いてありそうな綺麗な家すら見当たらず、結局、私のしょぼい感度の耳じゃたどり着けなかった。
私のストーカー根性は実らずに、変態の散歩は何の展開もなく終わってしまった。

 

この文を書いているたった今も、ピアノの音が聞こえている。
最近は、同じフレーズを何度も反復練習していて、同じところで間違えて、「次こそは」と弾きなおしては、また同じところでつまずいている。
何かの課題曲なのか、ただ好きで選んだ曲なのかは分からない。
一人暮らしなんだろうか、それともまだ学生で、実家のピアノで弾いているんだろうか。
そんな正体も分からないピアノの音に、体をゆらしている。

 

素敵なピアノを鳴らす人に会いたかったが、正体が分からないまま、うやむやにしておくのも悪くない。
なんだか現代は、はっきりさせなきゃいけない場面に遭遇することの方が多いけど、何もかも、はっきりとさせるのは、たまに鬱陶しいんじゃないか。

 

好奇心の赴くまま行動した結果、納得する答えを見つけたなら、それは素晴らしいことだし、分からなくても、それはそれでワクワクできるから良い。
正体が分からないからこそ、好奇心の湧く余地があって、惹きつけられる。
分からないからこそ、知りたくなって、ついつい行動してしまう。
「正体不明」でグレーゾーンであることは、サンカクじゃなくて意外とマルなのかもしれないな。

マルでもない、バツでもない、そんなサンカクなグレーゾーンの正体はあえて暴かずに、好奇心にそそられるがまま、妄想してニヤニヤするのもなんだか楽しい。そのグレーゾーンでゆらゆら揺れること自体を楽しめたら、きっとどんなことでも嬉しい。

気を緩めて「分かる分からない」「知る知らない」の間をゆっくり旅すればいいのだ。

分かりやすく言うならば、この状態は、着衣セックスと似ている。 服を一枚一枚脱がせて、身体の輪郭、ディテールをはっきりさせて楽しむのもいいけど、肝心なところは見えない下着だけ着けた状態を楽しむような、じれったさとか、もどかしさとか、エロい余裕もいいなと思う。たまには変態スタンスもアリだな、とクラシカルな音楽を聴きながら思ったわけです。

人生は、たまに着衣セックスでいい。

atこれは洗濯機を机にしながらベランダで書いています。

 

 

 

フェラガモちゃんの代役

 

木曜日に自転車を盗まれ、月曜日にフェラガモのお気に入りの靴が磨り減って穴があき、火曜日に彼氏と別れた。
そして友達に慰めてもらおうと水曜日、寝坊で約束をすっぽかされた。

 

なんなん!ついてないな!
お気に入りのものがどんどん私から離れていくようで、本当に悲しい。

 

フェラガモの靴は、ショップで買ったら一足8万くらいするものが、福岡の古着屋さんで1万ほどで買えた。
黒のシンプルなヒールにゴールドのリボンがついていて、ジーンズにもオフィスカジュアルにもぴったりなんだ。
古着屋さんで見つけて試しに履いたとき、自分のサイズにジャストフィットだった。
即買い決定。

 

でも、やっぱり最初は長時間歩くと靴擦れして、帰り道に裸足で帰ったこと数えきれず。
それでもこのフェラガモちゃんは可愛くてしかたないから、頑張ってちょっとずつちょっとずつ皮を自分の足にならしていった。今では、私のブサイクな外反母趾もすっぽりガードしてくれるようになった。

 

それなのに、こんな愛着のある靴が磨り減ってしまった。
そういえば、福岡から東京に来てから4ヶ月というものの、この靴でたくさんの道を歩いた。

 

オフィスカジュアルになってからの出社。
終電を逃して渋谷から白金まで。
新宿駅から出られず駅を端から端までダッシュ。

 

そりゃイタリー製でも擦れるわな。
彼氏とも、福岡から一緒に東京に来てたくさんの道を歩いた。
お互いの譲れない頑固な部分を、ちょっとずつちょっとずつお互いにならしていって、今では最高に居心地いい存在だ。

 

ただ、どんなに大好きでもちょっと歩きすぎたのか、お互い磨り減ってしまった。
フェラガモちゃんと照らし合わせてやたら感傷的になってしまう。悲しい。

 

即お買い上げするほどお気に入りの靴とはもうしばらく出会えないと思う。まあ、靴は金さえあればいくらでも買えるから大丈夫。

 

でも、対人間となると、同じような出会い方をすることなんてないし、代役もきかないし、万能の金も解決してくれない。

 

「靴をたくさん持つ女は浮気しがち」と聞くけど、靴ってよく男性のアナロジーになる。
すごくそうだと思う。
靴は、いつでもどこでも一緒についてきてくれる相棒だから、ちょっと恋人と似てる。
これじゃないあれじゃないと履き比べて、お気に入りの一足を見つける。
今回わかったことは、私は履き潰すタイプ。潰す….。

 

このフェラガモちゃんは修理に出して穴を塞ぐか、次はもっといい靴を買うかは考え中。
フェラガモちゃんは、よくここまで歩かせてくれてありがとう!
男の子も、靴みたいに代役がきけばいいのに〜。

 at これは、洗濯機を机にしながらベランダで書いています。