洗濯機を机にベランダから

机じゃなくてベランダの洗濯機にパソコンを置いて書いてます。どいせ洗濯機の上で作られた記事だって、さらっと読んでもらえると◎

就活生の私が陥った、大人とのアブナイ関係

 
「段階ってものがあるだろ?
君みたいな田舎者の子は、東京ですぐ潰されてしまうよ。しかも、東京は住むところじゃない。まずは福岡で働きなさい。」
もう、何人の大人に言われただろうか。
私のことをすごく知ったような口ぶりだ。
30〜50代、いわゆる社会で一人前の大人とされる方達とアルバイト先で話す中で、私が鹿児島出身の大学生だということ、そして就活中だということ、さらには、私が東京へ就職したがっていることを知ると、びっくりした顔でよく言われたのだ。
 
そして目の前のお客さんも、似たようなくだりを繰り返している。
この人は、ここのバーの常連さんだ。
「東京に行きたいの?悪いことは言わないから、東京はやめておきなさい。君、何人兄弟?」
「3人姉妹の末っ子です。」
「あ〜甘えんぼうか!」
きた。このくだりも何十回と繰り返した。
この家族構成で、なぜ100パーセント甘えん坊が出来上がるのか理由は分からなけど、大人達は口を揃えて言うし、客観的に見て大人がそうだと言うのなら、私は甘えん坊で、東京では1人でやっていけないタイプなのかもしれない。
 
マスターに目で合図されたので、青色のボトルから、おかわりのウイスキーをロックで注いでやる。
「君しゃべるの遅いね。頭の回転が遅いんだよ。田舎者で甘えん坊で頭もキレないのか〜手がかかるな。」
「君、今彼氏いる?そいつ、ろくな男じゃないよ。何人も人を見てると、人相でそういうのが分かるんだ。男運悪い顔してる、苦労するよ〜。東京なんかに行ったら、君は絶対悪い男に騙される!これからは、付き合う前に友達に見せた方がいい。」
グラスを片手に、なぜか嬉しそうに話している。
私に親身になってくれているのか、けなしているのかよく分からなかったから、どういう相槌を打てばいいか分からない。
表情も、少し硬くなってしまったかもしれない。
でも、あちらの顔が本気だから、話が終わるまではこちらも真面目な顔で聞くしかない。
 
しばらく、その人の就活の思い出話を聞いていると、突然携帯を手にとって「僕なら力になれるかもしれない」と言い出した。
電話をして数分。
「フルネーム!」と大きな声で言って通話口から顔を離してこちらを見ている。
事態は飲み込めないが、反射的に「う、うえかどゆかです!」とこたえた。
どうやら、相手に私の名前をメモさせているみたいだ。
しばらく様子を伺ってわかったことは、電話の向こう側の相手は、福岡のとある会社の人事の方ということ。
電話口からもれるワードから、さらに憶測を広げようと聞き耳を立てている間に
「上門さん、ラッキーだね。面接してくれるって。僕が推すんだから、めったに下手なことしなきゃ受かるよ、安心してやりなさい。」
話は整っていた。
よく分からない会社の、人事部長との面接日が決まっていた。
「いいね、僕が言うんだから間違いないよ、まずは福岡で働きなさい。」
とだけ言って、ネクタイをキュッと締め直して、厭らしく光沢するカードでお会計を済ませて帰っていった。
その常連さんの年齢は50くらい。いただいた名刺には、九州電力の、たしか係長か部長か、そこらへんのお偉いポジションが書かれていて、周りの人達にへこへこされていた。
 
帰宅してラインをチェックすると、面接の詳細が送られていた。
日時の確認と、持ち物は履歴書に、服装はスーツ。
文末には、応援していますと一言添えてある。
なんでこんなことまでしてくれたんだろう?足長おじさんなのかな?
当日着ていく白シャツにアイロンかけてあったっけ、とクローゼットを開けたところで、一時停止した。
あれ?
大きく膨れ上がった違和感に気づいた。
 
私が東京で潰されてしまうとか、どの会社に興味があるとか、東京は住み心地がいいかとか、彼氏がどうのこうのとか、全て自分の目で見て、やってみて決めることなのに、どうしてあの人はそのチャンスを奪って、結果を見越せてしまうんだろう?
私自身、何もパーソナルなことは喋っていないのに、私について語れるのが不思議だった
そう、あの人は、私を判断できる材料も、筋合いも、何も持っていなかった。
もう、全てが説得力を持たなかった。
 
大きな違和感を持った私は、後日、謝罪と共に、面接を遠慮されていただく旨を連絡した。
3日待っても、その連絡に返信はなかったし、もう、バーで見かけることもなかった
無表情で、既読のついた「応援しています」の文字を見る。
あー、陳腐だな。
スタンプのクマがアホみたいに笑っている。
私がしたことは、ひょっとすると恩を仇で返すってやつなのかもしれない。
ここまでしてやったのに、先輩の助けを無下にするなんて生意気な学生だ、思われてしまったんだろうか。
それに、きっとこれがドラマだったら「アルバイト先での偶然の出会いが、この会社と私を繋げてくれました。ご縁に感謝です。」的なことを言う場面なのかもしれない。
 
でも、私はその彼から、風にのって飛んできた「矢」を見た。
あの厭らしく光るカードと、お偉いポジション、50年の人生経験を武器に、アドバイスという「矢」をぶっ刺してきた。
「お金も持っていて、社会的地位もあって、人生経験も上」ということを盾に、盾のない学生に「俺がお前をプロデュースしてやるよ」と言わんばかりに、プロデューサー風をびゅうびゅう吹かしてくるのだ。
未熟な学生に、社会人である大人が優しくアドバイスをするという体裁の中に、自分の正しさを確かめたい、自分好みにコントロールしたい、という思いが透けて見えた。
盾がないから、こっちは防御力0である。
理にかなっていなくても、私からチャンスを奪ってしまうアドバイスでも、心に刺さった。
 
まだ社会人でもない、もう子供でもない大学生というのは、本当に社会的に不安定な立場で、社会という大きな土台の上で、いつも振り子が揺れている。
心は大人だけど、社会的にはまだ評価されていない。
道徳心や分別は持っているけど、「働く」場面に出くわせば、まだ使いものにならないぺーぺーだ。
「もう大人なんだから」と言われることもあれば「まだまだおこちゃまだね」と言われることもある。
学生という身分も、両親からの仕送りで買ったものだ。
簡単に、大人から子供へ、子供から大人へ、見られ方が変わる。
 
そうやって、まだ社会に出ていないことを意識すればするほど、自分の未熟さに自覚があればあるほど、その分「働いている」ことは学生にとって特別で、巨大に映る。
だから、目の前で「働いている」大人が「こうだ」と言うものは、凄みが増して「絶対」になってしまう。
しかも、張本人がその体験談を語ると、リアルで感情移入しやすいから説得力が増して、強く共感してしまう。
体験談なんて全事象のたった1つなのに、まるでその体験がすべての正解なような気がしてしまう。
 
彼の話を聞くときも、違和感に気付くのに精一杯で反論することもできなかったから、言葉をそのままに受け止めてしまいそうだった。
もし、私が彼の言葉をそのままに受け止めていれば、大好きな彼氏と一緒に東京で夢を叶えることは諦めていることになる。
その言葉に従ってしまえば、私から選択肢が消えて、私らしくなくなってしまう。
今なら、わかる。
そんな言葉は、間違っている。
 
未熟なことは、当たり前だし素晴らしいことだ。
未熟って、完成形じゃないっていうこと。つまり、自分で考える余地がたくさんあるということ。
自分で考えて腹落ちした答えは、自分にしか産めない産物で、オリジナルである分、自分だけのものになるし、彼のように他人に強要するものでもない。
勝手に、自分の中でしっかりと抱いていればいい。
その産物が、きっとピンチのときに助けてくれるし、人を引き寄せてくれるし、自分らしくしてくれるんじゃないかと思うのだ。
 
就活やアルバイトをして気づいたことは、大人っていうものは、みんな言うことばらばらだし、かっこ悪い人もいるし、こちらから考えるきっかけを奪ってしまう人もいるということ。
だから、大人からのアドバイスをしっかりと自分で取捨選択して、捨ててしまった分、自分の脳みそで考えることが必要になってくる。
 
今だからこそ言えるけど、考えるよりも先に、大人の言うことを丸呑みにしていた頃の私に、「矢をよてけ、自分の産物を抱け」って言いたい。
 
 

冷凍庫には、スキンヘッドのケバブ

以前、Banksiaという街に住んでいた。
「CBD郊外のほうが治安がいいし安いのよ。引っ越し先が決まったら教えてね。」というイタリア人ホストマザーの助言どおり、次のシェアハウスは学校から電車で30分ぐらいの郊外にすることにした。決め手は、その家を初めて内覧したとき、管理人のSashが、私のためにわざわざチキンケバブを買ってきてくれていたからだった。ケバブを得意げに手渡してくれたとき「この人は私と一緒で、食べることで人と仲良くなれると思ってるタイプなのか」と、一気に親近感を抱き、好きになった。
ただ食べ物に釣られただけの単純な奴の図だが、内覧9軒目にしてやっと決まったことで安心したし、これから始まるここでの生活にワクワクしていた。

 

この管理人は、スキンヘッドの30過ぎの独身男性で、耳がこそばゆくなるほどソフトな口調だったから、初めは「もしかしてゲイ?」と、初めて会うゲイに戸惑っていた。
でも後から分かったことだが、sashの性癖なんてどうでもよくなるくらいsashは本当にできた管理人で、掃除も、シェアメイトとのコミュニケーションも女性並にまめだった。そして、sash流コミュニケーションの取り方は、出会った最初からお別れする最後まで一貫して「食」だった。
ココナッツ味のチョコレートや、近所のケバブなどをチラつかせて、私を釣る。そして釣った後は、もれなくお喋りタイムになるのだ。Sashは、私が食べることが大好きなのを知っていて、態度には出していないはずなのに私が落ち込んでいるのをなぜか察知すると、お腹を満たしながら話を聞き、ハゲましてくれるのだった。

英語しか話していないと、伝えたいことが伝えられないストレスがあって、本当に気がやむ。
今まで使ったことのない言語分野の脳の部分を使うので、意外と疲れるのだ。このストレスを感じにシドニーに来たところはあったけれども、それでも落ち込んで人と会いたくなくなる日もあった。そんな日は、決まって自分の部屋に閉じこもる。目を閉じて、手足の力を抜く。ふぅと息を吐く。だんだんと心が落ち着いてくる。コンッココン コンッココン「Hey, Yuka~! How are ya ? Are you okay ?」Sashか。何拍子だよ、そのノックのリズムは。
この独特のリズムのおかげで、ドアの向こうに立っているのはSashだと分かる。でも、今はもう英語を喋る人とは誰とも喋りたくなかった。Sashは喋るのが早いし、うまく聞き取れない。一人になりたくて部屋で大人しくしてるんだから、空気を読んで放っておいてほしい。
でも、ケバブの美味しい匂いがドアの隙間から流れ込んでくる。このソースの匂いは、ピリ辛ソースのミートケバブだ。最初は、3種類ぐらいあるソースの中から何のソースがいいか毎回聞かれていたが、3種類全て制覇したあと私がこのピリ辛ソースをリピートするようになったことを見ると、Sashはもうどのソースがいいかは聞かずに、勝手にこのピリ辛ソースを買ってきてくれるようになった。あのハゲ、また今回も買ってきやがったな。ハゲが、私が落ち込んでいることに気づいて元気づけようとしていることが見え見えで憎たらしい。まるでミルクを飲ませればたちまち泣き止んで、満足そうな顔をする赤ちゃんと同等に扱われてるように感じる。バカにしないでよね。...ただ、このケバブに罪はない。ケバブを受け取り、お礼を言って一口食べる。Sashが私の隣に座ったせいで、2人分ベットが沈んだ。ちょっぴり辛いソースと、甘い生地がよく合うな。キャベツもいい感じにしなっていて、ソースが絡んでいる。ミートもたっぷり入ってボリューミーなところもお気に入りだ。うん、納得のうまさ。Sashは私が落ち込んでいることには特に触れないが、心配そうに私を見つめている。もう、私の好みも気分もお見通しらしい。
ハゲハゲと心の中で毒づいたことを申し訳なく思って、「 I’m okay.」と短く言うと、sashは眉毛をひょいっと上げてみせ、微笑んだ。丸いベージュ色の卵に、笑顔が張り付いているみたいだ。もう絶対ゲイだろ。お腹が満たされると、心もなんだか平穏になった。心外にも、Sashの戦略にまんまと引っかかってしまった。Sashはこんな風に、私がシドニーを旅立つ最後の最後まで、色々と世話を焼いてくれた。シドニー最後の日、一番最後に会ったのもSashだった。「空港まで車を出してくれたこと」にありがとうを言うつもりだったのに、いつの間にか「今まで」ありがとうになっていた。頭の中にある、つたないボキャブラリーの中でとっておきの褒め言葉と感謝の言葉と好きを伝えた。ピリ辛ケバブのおかげで、私は落ち込んだ時も元気を取り戻せたのだ。Sashは、ハグしながら君とはもう一度会えそうな予感がすると微笑んで言ってくれた。思い出の処理には2パターンあると思っている。ゴミ箱に捨てるか、冷凍庫に入れるかだ。 ゴミ箱に入れれば、やがて回収されて粉々になって、もう二度とそれは戻ってこない。今まで、ゴミ箱には、最悪な別れかたをした元彼との思い出や、40万するビジネスクラスのフライトを間違えて取った恥ずかしい失敗や、高校時代のコンプレックスを入れてきた。でも私には、捨てられずに、冷凍庫に入れておきたい思い出もある。たまに解凍して味わいたい。鮮明に思い出して、反芻したいのだ。福岡の大名にあるケバブ屋を通ると、必ずSashのことを思い出す。大名のケバブがトリガーとなって、Sashが買ってくれていたケバブが恋しくなる。
ああ、そういえば、Banksiaがうまく発音できなくてSashに笑われていたな、という本当に些細な思い出だ。そういう些細な思い出が、私を励ます。遠い異国の、言葉もろくに通じない人が、私が落ち込んでいないか心配してくれている、また会えると信じてくれている、ということがどれほど嬉しことか。そうやって、落ち込んだときには食べ物のたくさん詰まった冷凍庫を開けるのだ。そしてこれからも、解凍したくなるような過去をたくさん作っていきたいし、冷凍庫にあるたくさんの過去がものが私の背中を何回でも押してくれるはずだ。

ふんどしと宮沢りえの乳首にeroticismを思う

 

「俺、今すごく勉強欲が高まってるんだよね。文化的なデートがしたい」 

「文化的なデートって何!」 

彼が生意気なことを言うから、いつものカラオケ経由ジョイフルデートから少しお利口さんになって、文化的なデートとやらをすることになった。 

ちょうど、福岡アジア美術館篠山紀信「写真力」の写真展があったから、私達はチケットを買うことにしたのである。一人1100円だ。カラオケに行く値段とあまり変わらない。 

篠山紀信とは、説明などいらないほどの偉人なのだが、芸術に疎い私は、名前を言われただけでは気づかなかった。 

誰もが一度は目にしたことがある、小野ヨーコとジョンレノンがキスをしている写真でお馴染みの超有名な写真家である。 

「ほら、この前一緒に行った快楽の館展を撮った人だよ」と言われ、やっと顔と作品と名前が合致した。 

恐るべし紀信。22歳女子大生にとっても、身近な存在だったとは。

去年の夏、たまたま「快楽の館」という怪し気な名前に惹かれて原美術館に足を運んだばかりであった。 

「快楽の館」と言うぐらいであるから、それはもう快楽の嵐だった。 

美女達が、紀信に言われるがまま大胆にポーズを取り、それらがセンス良く展示されてあったのだ。 

右を見て裸体。左を見て裸体。覗いて裸体であった。 

 

そんな篠山紀信が、50余年におよぶ仕事の中から選りすぐった写真の展覧会であるから、どれだけ素晴らしい作品を観ることができるのだろうと、すごく楽しみにしていた。 

どんな快楽が待っているのだろう。 

 

黒いカーテンをくぐると、壁いっぱに写真が展示されていた。 

メートル単位の巨大なものから、小窓ほどのサイズのものもある。 

それは素晴らしいものだった。 

写真1枚1枚が強いエネルギーを放っていて、またそれに心が動かされた観覧者たちのエネルギーもある。 

ギャラリーには、そんなエネルギーが満ちていた。 

おのおのが自由に、対峙する1枚に感想をぶつけている。 

「今にも動き出しそう」なんてありふれた言葉だが、まさにその表現がぴったりだった。

 

感動しながら部屋を進んでいくうちに、セクションが変わっていく。間もなくして辿り着いたのは、BODY(裸の肉体ー美とエロスの闘い) というセクションだった。 

 

衝撃だったことは、宮沢りえとお相撲さんの写真が同じ空間にあったことだった。 

宮沢りえは、全裸で芝生に座ってこちらを見つめ、はにかんでいる。おそらく18歳の頃だろう。 

胸はしっかりと膨らみ、先には桃色をした乳首がツンと上を向いている。 

向かいの壁では、国立体技場で当時のお相撲さん達が全員集合している。卒業式の時に撮るような、かしこまった写真だ。おそらく、ペリーが日本に来たときもこのような迫力を持って緊急態勢をとったのだろう。怖い。 

確かにお互いセミヌードだが、放つオーラがあまりにも異質すぎた。 

宮沢りえの、欲情する桃色の乳首を見た後、お相撲さんのたれパンダのようなおっぱいを見る。 

なんどもその2枚を行き来していると、だんだん脳が混乱してくるのだ。 

これはエロなのか? 

私の知っているヌードからどんどんかけ離れていく。 

お相撲さんの存在で、そのセクションにあるヌードの写真から、いやらしさが抜けてしまうのだ。 

これはエロでいいのか? 

お相撲さん効果で、このセクションの写真をいやらしい目で見ることができなくなっていた。

炭酸の抜けてしまったコーラのように、なんだかパンチがないが、なめらかな甘さはある。 

写真に写っている裸は、生命力にあふれていて、フレッシュで、美しかった。 

バレエダンサーの写真をみて、筋肉はこんなに隆起できるのかと、感動した。 

女性特有の優しい曲線美に惚れ惚れとした。 

そして、宮沢りえの桃色の乳首を見て、「可憐だ」とはっきり形容できる色があるのかと驚いた。 

 

コンビニの雑誌コーナーには、ヤングジャンプなどの少年雑誌が並んでいて、表紙には水着を着て上目遣いをする若い女の子が載っていたりする。汚れた作業着を着た薄らハゲのおじさん達が、缶コーヒーを買うついでによく立ち読みをしている。 

小さい頃は、コンビニの雑誌コーナーを通るたびに「ゆかちゃん見ちゃだめよ」と言われ、エロとは破廉恥なもの、ダメなもの、という認識を持っていた。 

また、大学1年生の頃にミニスカートを履いて出かけたとき、男性とすれ違うたびにちらっと脚に目を落とされるのも居心地が悪く、露出とは気持ち悪いもの、という感覚を持っていた。 

しかし、篠山紀信の提示するエロとは、肉体としての「美しさ」なのである。 

その訴えが、このBODY「裸の肉体ー美とエロスの闘い」に表現されていた。 

写っている身体は、みな堂々と佇んでいた。

こんなにも「エロ」について考える休日はなかったと思う。 

ふんどしと宮沢りえの乳首が、悪のエロを美のエロへと変えてくれた。

彼と私は、ふんどしと桃色の乳首に名残惜しさを感じつつこの篠山紀信「写真力」展を出た。 

いつもとはちょっと違う、文化的なデートとなった。

 

 

 

父の般若の面が外れた日

 
「あんなに大人っぽくないよ」
母は言ったが、鹿児島中央駅の西口から大きな荷物を抱えて出てきたのは、まぎれもなく私だ。
1年ぶりの帰郷だったから、少し雰囲気も変わっていたのだろう。
「明日はおばあちゃんのケアハウスにお見舞いに行くから」
と、迎えに来てくれた車の中で早々伝えられる。
年末は、いくら田舎な鹿児島といっても、やはり道が混み合う。
帰省は、いつも退屈だ。
時代錯誤な親戚達とのご挨拶に、結婚や就職に口うるさいご近所へのご挨拶。
実家は、いつも居心地が悪い。
四六時中聞かされる、父と母の喧嘩。
 
小さいとき、父は鬼で、母は女神のようだった。
父とはろくに会話をしたことがなく、少しでも父の気に障ることをすれば正座をさせられ、「馬鹿」だの「お前は一番出来が悪い」だの「俺をなめるな」だの、散々怒鳴られた。だけど、そんな後は必ず母が慰めてくれた。
父は私だけでなく、母とも毎晩喧嘩をしていた。
小さいながらも「なんでそんなにお母さんを傷つけるの?」の疑問で胸がいっぱいだった。
もうあれは、喧嘩というよりかは、一方的に、鋭い言葉で母のハートをグサグサ刺しているようなもんだったから、姉達も私も中学生まで、父の怒鳴り声と、母の反発にもならない声をBGMに、泣きながら寝ていた。
そして自然と、家のことを「おうち」から「実家」と呼び、避けるようになった。
 
 
帰省した3日後、母は還暦同窓会で1日中家を空けていて、父と二人きりになった。
地元の友達と出かける予定だったが、父に「出るぞ」と言われたため、友達との予定はキャンセルし、連れて行かされた先は護国神社だった。
そこで引いたおみくじは小吉で、就業の項目に「反省して適度な処へ行け」と書いてあった。
消極的な内容に落ち込んでいると「照国神社にも行くぞ」と言われ、照国神社で2度目のおみくじを引いた。
そこに就業の項目こそなかったが、大吉で、私よりも父の満足そうな顔が奇妙であり、照れ臭くもあった。
 
参拝が終わっても、父の拉致はまだ終わらない。
父の2歩後ろを無言で歩いていたら、父はちらっと私を見て「お昼を食べるぞ」と言った。
なんだか今日の父は変だ。
2人きりでの食事なんて、記憶にないことだ。
そして2人きりでこんなに歩き回るのも初めてのことだ。
お寿司を食べて、通りがかった洋服店で父の新しいコートを選んであげて、最後はケーキ屋でお茶をした。
あの強面の昭和親父が、こんな可愛らしい、コーヒーの無料セルフサービスまであるケーキ屋を知っているとは!
お互い無言でチーズケーキをつついていると、父は唐突に「気をつけていることがある」と切り出した。
「いまだ木鶏足りえず、という故事を知っているか。この歳にもなって、まだたくさん学びがある。この前の講演会でこの言葉を知ったんだけど、木鶏っちゅうのは、要するに木彫りの鶏のことで、何を言われてもどんな態度をとられても、動じずに、自分のとるべき言動、進むべき道に影響を受けない様子をたとえている。この言葉を聞いて、お父さんもまだ木鶏にはなれないなといつも反省するわけよ。」
今日はいつもより口調が穏やかで、よく喋る。会話が成り立つことに驚く。
激高癖のある父が、それを自覚し、冷静になろうと気をつけているなんて知らなかったし、気づきもしなかった。
確かに今朝は、怒りそうになってもしかめっ面をするだけで、母にトーストを焼いてあげていた。
満席のため少し待つと言われた寿司屋でも、大人しく待っていた。
私の就活の話も落ち着いて聞いてくれた。
少しずつ、私の父親像に修正が入っていく。
絶対的な存在だった父が、だんだん一人の男性として映る。
 
父は今、喉頭癌だ。孫も生まれた。
そのことが、父の価値観を変えたことは、見ていて分かった。
私が福岡で生活して、少し大人っぽくなっている間に、確かに父にも同じように時間は過ぎていた。
激しく咳込み、何錠も薬を飲む父の今の背中は、昔よりだいぶ小さい。
血の繋がった身近な存在が、遠い鹿児島で少しづつ変化していたのだ。
今まで、言われれて嫌なことはたくさんあったし、サンタさんに「お父さん」をお願いしたこともあった。
少し弱く、少し穏やかになった父に違和感は感じるが、父が変化するならば、私もそれを受け入れなければならないのではないか。
 
4月から社会人になる年の1月、いつもの憂鬱な帰省とはちょっと違って、鬼のような父の変化を見た帰省だった。
 
 

女の子の生態

偏見をもって女の子の生態を語る

 

 

男の子は得意だけど、女の子は苦手だ。

男の子は優しくすればその優しさを返してくれる。

言葉に裏表がないし、感情でコロコロ態度を変えたりしない。

でも女の子はそうじゃない。

女の子は自分が一番可愛らしいと思っているから、与えられることは当然で慣れているけど、与えることに慣れていない。

可愛くありたい。

まるごと愛されたい。

異性の目を集めてちやほやされたい。

ていうpassiveの欲求が強いように思う。上門にだってある。

無邪気に、生殖欲求と承認欲求を持ち合わせてるのが、女の子だ。

そしてそれは本能の欲求だから、コントロールできるものじゃない。

 

 

そんな女の子同士が対峙したら、バチバチなんだ

どちらがメスとして優れているか見えない土俵で勝負をけしかけ合う。

にこにこしながら、お互いのメスレベルを推し量り合う

そうやって仲良くなれるときは、お互いのメスレベルが同等か(戦友タイプ)、メスと認識し合っていないかのどちらかだ。(非戦闘タイプ)

 

 

だから、女の子を前にすると、この子は、私に戦いを挑んでいるのかいないのか、いちいち判断してしまって疲れる。よーいどんで持ち出される嫉妬心や敵意、優越感は、居心地が悪い。

どうやってメスレベルを推し量ったんだろう、友達認定もらえたんだろうか、もらえていないんだとしたら、どこが気に食わないんだろう。

そんなとこが女の子同士だと気になる。こちらとしても、ライバル、敵とみなされていては、気は許せない。

 

 

そして逆もしかり。

私だって、メスモードのときはある。

この前、彼氏と歩いていると、あわてて彼が方向転換した。

「どうしたの?」と聞くと、元カノが対面から歩いてきたらしい。

そんな慌てなくてもいいじゃん

彼氏の感情をこんなに乱す存在とか、許さん!と思った私は、彼氏に「元カノに会わせろ」と駄々を捏ねた。

どうしても、リアルで対峙して、どちらの女っぷりが高いか勝負して、打ち負かしてやりたくなった。笑

3秒で十分だ。「初めまして。」でメス臭を放ってニコっと威嚇すれば勝負はつく。

でも彼は元カノと再会するのが嫌だったらしく、その戦いはおじゃんになった。

その後散々、元カノより私が勝っているところを挙げさせた

本当、女の子って、疲れるよね。笑

 

 

 

でも思う。

戦友でも、非戦闘タイプの女友達でも、愛すべき存在だなって。

「愛されたい!」ていうドスの利いた欲望を、さりげなく隠れて、可愛く表現できるのは女の子の特権だ。

特権を上手に使う女の子は、同性として尊敬するし、頑張っていて可愛らしいじゃないか。

そんなことを思って、少し「女の子」が好きになった上門でした。

 

メス同士の威嚇を乗り越えてやっと、相手は人間味を出してくれる。

そうなったらもう、「ともだち」だ。

「女の子のともだち」もいいね。