洗濯機を机にベランダから

机じゃなくてベランダの洗濯機にパソコンを置いて書いてます。どいせ洗濯機の上で作られた記事だって、さらっと読んでもらえると◎

父の般若の面が外れた日

 
「あんなに大人っぽくないよ」
母は言ったが、鹿児島中央駅の西口から大きな荷物を抱えて出てきたのは、まぎれもなく私だ。
1年ぶりの帰郷だったから、少し雰囲気も変わっていたのだろう。
「明日はおばあちゃんのケアハウスにお見舞いに行くから」
と、迎えに来てくれた車の中で早々伝えられる。
年末は、いくら田舎な鹿児島といっても、やはり道が混み合う。
帰省は、いつも退屈だ。
時代錯誤な親戚達とのご挨拶に、結婚や就職に口うるさいご近所へのご挨拶。
実家は、いつも居心地が悪い。
四六時中聞かされる、父と母の喧嘩。
 
小さいとき、父は鬼で、母は女神のようだった。
父とはろくに会話をしたことがなく、少しでも父の気に障ることをすれば正座をさせられ、「馬鹿」だの「お前は一番出来が悪い」だの「俺をなめるな」だの、散々怒鳴られた。だけど、そんな後は必ず母が慰めてくれた。
父は私だけでなく、母とも毎晩喧嘩をしていた。
小さいながらも「なんでそんなにお母さんを傷つけるの?」の疑問で胸がいっぱいだった。
もうあれは、喧嘩というよりかは、一方的に、鋭い言葉で母のハートをグサグサ刺しているようなもんだったから、姉達も私も中学生まで、父の怒鳴り声と、母の反発にもならない声をBGMに、泣きながら寝ていた。
そして自然と、家のことを「おうち」から「実家」と呼び、避けるようになった。
 
 
帰省した3日後、母は還暦同窓会で1日中家を空けていて、父と二人きりになった。
地元の友達と出かける予定だったが、父に「出るぞ」と言われたため、友達との予定はキャンセルし、連れて行かされた先は護国神社だった。
そこで引いたおみくじは小吉で、就業の項目に「反省して適度な処へ行け」と書いてあった。
消極的な内容に落ち込んでいると「照国神社にも行くぞ」と言われ、照国神社で2度目のおみくじを引いた。
そこに就業の項目こそなかったが、大吉で、私よりも父の満足そうな顔が奇妙であり、照れ臭くもあった。
 
参拝が終わっても、父の拉致はまだ終わらない。
父の2歩後ろを無言で歩いていたら、父はちらっと私を見て「お昼を食べるぞ」と言った。
なんだか今日の父は変だ。
2人きりでの食事なんて、記憶にないことだ。
そして2人きりでこんなに歩き回るのも初めてのことだ。
お寿司を食べて、通りがかった洋服店で父の新しいコートを選んであげて、最後はケーキ屋でお茶をした。
あの強面の昭和親父が、こんな可愛らしい、コーヒーの無料セルフサービスまであるケーキ屋を知っているとは!
お互い無言でチーズケーキをつついていると、父は唐突に「気をつけていることがある」と切り出した。
「いまだ木鶏足りえず、という故事を知っているか。この歳にもなって、まだたくさん学びがある。この前の講演会でこの言葉を知ったんだけど、木鶏っちゅうのは、要するに木彫りの鶏のことで、何を言われてもどんな態度をとられても、動じずに、自分のとるべき言動、進むべき道に影響を受けない様子をたとえている。この言葉を聞いて、お父さんもまだ木鶏にはなれないなといつも反省するわけよ。」
今日はいつもより口調が穏やかで、よく喋る。会話が成り立つことに驚く。
激高癖のある父が、それを自覚し、冷静になろうと気をつけているなんて知らなかったし、気づきもしなかった。
確かに今朝は、怒りそうになってもしかめっ面をするだけで、母にトーストを焼いてあげていた。
満席のため少し待つと言われた寿司屋でも、大人しく待っていた。
私の就活の話も落ち着いて聞いてくれた。
少しずつ、私の父親像に修正が入っていく。
絶対的な存在だった父が、だんだん一人の男性として映る。
 
父は今、喉頭癌だ。孫も生まれた。
そのことが、父の価値観を変えたことは、見ていて分かった。
私が福岡で生活して、少し大人っぽくなっている間に、確かに父にも同じように時間は過ぎていた。
激しく咳込み、何錠も薬を飲む父の今の背中は、昔よりだいぶ小さい。
血の繋がった身近な存在が、遠い鹿児島で少しづつ変化していたのだ。
今まで、言われれて嫌なことはたくさんあったし、サンタさんに「お父さん」をお願いしたこともあった。
少し弱く、少し穏やかになった父に違和感は感じるが、父が変化するならば、私もそれを受け入れなければならないのではないか。
 
4月から社会人になる年の1月、いつもの憂鬱な帰省とはちょっと違って、鬼のような父の変化を見た帰省だった。