ふいに、ふと、みかん
小さい頃の記憶なんて、地元を出て生活し始めたぐらいから、拍車をかけて忘れてしまった。
初めて自転車に乗れた喜び、お母さんのおにぎりの塩加減、実家のピアノの鍵盤の硬さ。
きっともう一度体験すれば、「あぁ、これだこれ」と感覚が蘇るけど、今の日常に、その感覚を思い出す余白はない。
友人に、写真好きな人がいる。
最近フィルムカメラを始めたらしい。
その友人に、フィルムカメラマンで有名な奥山由之さんの『As the Call, So the Echo』という写真展があるから一緒に行かないかと誘われた。
港区の海岸1丁目でその写真展はあるらしく「奥山さんは26歳で若いのに、めっちゃ綺麗な写真を撮るんだよ!」と道すがら説明を受け、すっかり興味を持った私は、わくわくしながら写真展に向かった。
無骨な音の鳴る、淡いブルーのエレベーターに乗って5階に上がると、無機質なコンクリートの床と白い壁の広い空間があった。
白い壁には、バランスよく写真が展示されている。写真と、白い壁のバランスが贅沢だ。
約2年にわたり、とある長野の村で暮らす家族と、その周りの人々の日々の情景を切り取ったものが展示されていた。
父が子を抱きしめている写真
これは家の前かな?
抽象的な色だけが映された写真
素材はアクリルでツルツルしている
赤ちゃんが一人お風呂に浮かんでる写真
誰も支えてあげてないけど、沈まないかな
なにげない日常の一コマであるはずなのに、私の中に流れる何かに、奥山さんのレンズを通したその一コマがトリガーとなって、何かを彷彿させようとした。
たぶん、ここの村の家族の光景が、昔の私の家族の光景と少しリンクしたんだと思う。
父親に守られるようにして抱かれている子供。
もう降ろしてほしそうな、でも父親に抱っこされて嬉しそうな、不安定な表情を浮かべていた。
子供は、まだ知りもしないが、そこには愛情がはっきりと写り込んでいた。
思い出すことすら忘れていた思い出。
思い出す余白なんてなかったはずが、私の脳にはきちんと刻まれていたらしい。
過去、リアルに体験したはずなのに、もう具体的なエピソードは抜け落ちて、感覚や感情だけが残っている。
小さい頃、家族から愛された感覚。
懐かしい。
夕と夜が混ざり合い、曖昧になる5時。
5時を合図に、ポーンと切ないチャイム音の夕焼け小焼けを聞いているような、名残惜しいけど、早くお家に帰りたくなるような、そんな気分だ。
そういえば、先日家族から鹿児島の名物、桜島子みかんがたくさん入った段ボールが送られてきた。
母から「頑張っているね。体に気をつけて!」のメッセージカードが、みかんの上にそっと置いてあった。
渋みも酸味もない、ただただ甘ったるい桜島子みかんの味は、鹿児島での冬を思い出す。
よし、そろそろ、実家に帰ろう。